topguidecreativestorymindbbsmail
FIIL since 2002.4.26  ME All rights reserved. This site is link free.

 FILL-STORY LOVER'S BRAIN [ラバーズ・ブレイン 2001.NOV]


薦められて出向いた小さな店から始まった出逢い。 運命のように 激しく淡々と心は熱せられていく。 SANAの歌声と群青の青い鳥に描かれていく男女のコラボレーション。

『LOVER'S BRAIN 愛するものたちの知力  愛は知性を呼び覚まし 創造はそこに生まれ出づる』

胸を揺さぶる出逢い系 。

   
  (1) 群青
   「おまえは、バーボンが好きだろう、実にいい店があるんだ。」
 契約で派遣されてきたコンピューター技師の男が、三ケ月の契約を終えた最後の日、俺に耳打ちしてきた。

 「そこで歌う女の歌もまたいい。決して上手いとはいえないが、聴いてみてくれ。いいから行けばわかるさ、おまえならな」  

 その男と俺は、やつがここに派遣されて以来、週に一度は飲みに行っていた。最初から妙に気があうところがあり、よけいな言葉を使わなくても話しが通 じる、野暮が無用な相手だった。十日程前に飲んだのが最後で、あと一度くらいはと約束したきり結局、約束は果 たされないままになった。それが気になっていたからだろう、やつらしい置き土産を残して別れを飾っていったのだと思う。

 俺は、いい店だという言葉が気になったわけではないが、翌日には、早速その店に足を運んでいた。残業の後だったから、もう九時もまわった頃だったろうか。物静かに看板も見落としてしまいそうな程に、小さな入り口を構えてその店はあった。こじんまりとした小綺麗なたたずまいで、計算して最低限度の内装にこだわったと、一目で伺える店だ。だからといって、新鋭デザイナーが手掛けるような無機質な空間とは根本的に違う。ましてや懐古趣味に走るデコラティブな家具があったわけでもない。要するに今までにあったどの店とも違う、どこにも真似できない独特の空気が出来上がっている洗練された店だった。
 上手い珈琲屋っていうのもそうだが、最近はなかなかそういう個人店には、出くわさなくなった。やつが総称して、そこがいい店だと言った理由を納得する。一緒に行った店ではいつも思 うことだったが、その選択は如才なくある種才能さえ感じる程、やつの勧める店に間違いはなかったのだ。どこからみつけてくるのか、俺はその恩恵に授かりここのところは実に上手い酒にありつけていた。その中でもおそらく、群を抜いてこの店が違うと、一歩踏み入れたときから俺にはわかった。店の個性も感性の成せる技ならば、そこはまさに感性の創造で仕上がったような空間だったのだ。
 俺はバーボンを味うことよりも、その店の空気に酔うことを好んだ。感覚を研ぎすませて静かに酒をすすっているだけで、恍惚とした充足感に浸れる。カウンターに腰掛けて、何時間そこにいても上等な酒をあおっているような心地よさに満足できただろう。
 彼女の歌を聴くことさえなければ、その空間だけでも人生の機微を知った気分でいられただろうにと思う。SANAと名乗る女の歌は、根底から揺るがすほどに俺の心に貼り付いた。群青色のドレスに身を包み、ハスキーな歌声は確かにずば抜けて上手いという歌ではなかった。しかし、技量 という点で劣る何かがあったにせよ、全ては彼女の芯から訴えるその感情描写が、人の心を打つ術を表現しつくしていた。
 人の歌を聴いて涙を流すことが、もう、何年も前の過去の自分であったとを思い出し、俺は凍てついていた心が解け出したと知った。
   
  (2) 瞳
   SANAはその晩、2曲でステ−ジを切り上げてしまった。咽の不調を訴え丁重に客に詫びの言葉を告げ、すぐさまスポットの裏へと消えていった。

 その後の俺は、ただ座っていることしかできなかったのではないか、と思う。思うとは、正直なところ記憶が定かではないゆえ。スピーカーからの大音量 の余韻の中で、店の空間にある恍惚感と共存していたら、もう現実との境界線などあるほうがおかしい。酔ったという一言で片づくなら簡単なことだ。俺は酔っていた。SANAの醸し出す、すべてに発散されたエネルギーに酔いしれて、完全に陶酔していた。魂を貫くという例えを使うならば、SANAの歌でまさに心が打ち抜かれた。 カウンターの席は、正確にはステージとちょうど相反する向きにあった。だからSANAの歌っている姿をほとんど俺は見ていない。背中で彼女の歌を聴き、彼女は後ろから歌を浴びせた。  
 翌日、昨夜からの余響があまりに心に鮮明に残り過ぎて、もしかしたらその店は本当は無いのではないかとさえ不安を抱いた。陽のあたる時間の正確さに委ねて信じようと、わざわざ昼間に出向いたほどだった。夜とは趣きを変えているだろう、店の在り処をその通 りまで確かめに。 そこで昨夜は気づかなかったが、店の入り口のメニューボードの下にSANAの写 真とライブ紹介の告知が張り出してあるのを見つけた。

 SANA' S LIVE → TUE & FRY / PM 9:30〜 & PM 10:30〜

 ライトの下で見た彼女とは違い、フレームの中にいるSANAは少し童顔に見えた。昨夜の雰囲気からは30も超えていそうな貫禄があった。でもその写 真からは26、7程度のまだ娘っぽさが残る顔だちが伺える。凛として前を見つめる瞳には、曇りのない意志が強く輝いて映しだされている。彼女のその瞳は、今までに何度あふれ出て止まらない涙に濡れたのだろうか、と思いつき俺はふいに胸を痛める。

 その週、SANAのいないとわかっている店に惜し気もなく通ったのは言うまでもない。あの空間に立ち返ることで、あの時得た恍惚感、躍動感、充足感、高揚感を同時に体感できた。体感したくて、俺は何度もその時の心境に身を置きくり返し味わった。そして、金曜日はやってきた。いつもの通 り9時ごろには店の前に着いていたと思う。店へと下る階段を降りようとした時、気付いた。SANAがそこで待っていたことを。 誰を?俺を、か。
 あの日のステージ衣装と同系色の濃紺のシャツとストレートのジーンズ姿にミュールを突っかけ、柱に寄りかかったままのSANA。俺には一瞥もくれずにマルボロに無造作に火を灯していた。

「SANAさん、今夜はステ−ジではなかったんですか?」
「あなたを待って、変えてもらった」
「俺が、誰だか知っていたの?」
「知っているよ。私の歌で泣いた男。」

 それから俺たちは街へとくり出し、たんまり酒を浴びた。馬鹿さわぎをしてはしゃいだ。10代の頃に戻ったように、ただただ、二人で費やすだけに委ねて夜の街を過した。そんな時間はいくらあっても足らない。あっという間に朝もやに体を冷やして、温もりが恋しい時刻へと移ろいでゆくのだった。
   
  (3) 理由
   SANAは言った。
 私は、歌を歌うために生まれてきたの。誰かが隣で感動している。誰かの心が叫んでいる。そんな瞬間に出くわした時、私は歌わないではいられなくなる。 心が震えた感動を私は歌で表すことができるから、どうにか溢れる思いに溺れないで生きていられる。もしも私に歌を無くしたら、きっと感動の膿に体が冒されて今を生きることさえできないだろう。呼吸することもおぼつかずにその場に立ち尽くして、真っ暗な闇から這い上がれずにいただろう。人は感じないでは生きられない。また、感じ過ぎても生きられない。
 もしも感じ過ぎる心を持って生まれ出た子どもは、その感性を紡いでいかなければならないのよ。私の歌に課せられた大きな使命のように、それを背負って幸福と思う。なぜなら、それは人の心を動かすことのできる特権なのだから。私が誰かの想いで心を震わしていられたように、私は誰かを、あなたを震わすことができた。
 けれど、この身の丈にあわぬ心を抱きながら私たちは時に途方に暮れる。生きるために課せられた心の枷を背負って。  
 移り変わる時の逢瀬に、今、感じ入って変わりゆくことを選ぶ。私たちは出会うべきして出会った運命なのだと、何も言わずとも知ることができたのだから。

 俺は当然、SANAをアパートへ連れ帰るつもりでいた。できればSANAのアパートに行けるなら、その方がもっと好ましかった。  
 今日が土曜だから、夕方には俺の家には美幸が来ることになっている。好んで修羅場を選ぶやつなどいない。何か口実を考えて美幸の訪問を食い止めなければならなかった。罪悪感がないと言えば嘘だ。3年のつきあいになる美幸との穏やかな空間を消すことなどできない。けれど、今、SANAと分かち合う時に嘘はない。多分、俺たちは同じ心を持った、同じ傷に痛みを癒す同志だ。温もりを分かち合わないではいられない使命であるならば、SANAが語る通 りに俺もそのままを受け止めたい。俺たちは出会ってしまい、お互いの信号を言葉を必要とせずに受け止めあえたのだから。  
  俺は思う。ずっとこの時を待ちわびて、殺伐とした今に身を投じて生きていたのだと。この身を持て余す想いを、誰かに気づかせたかった。知らしめて、なおすべてを許す場所をこんなにも欲していたことを知った。

 SANAの歌はまさに、その叫びそのものだったのだ。こんな出会いをなぜ、今手放すことができるものか。今すぐにでもここに押し倒し全てを共有したって構わない。俺たちは今、それを欲しているはずなのだから。しかし、SANAは結ばれることを拒んだのだった。
   
  (4) 制御
   理由は単純だった。SANAは午前中にスタジオに行かなければならず、これから帰ってシャワーを浴び、2〜3時間仮眠したいと言った。昨夜ステージを飛ばしてしまったのだから、今日はどうしても歌わないわけにはいかない。これを蹴ったら職にあぶれてしまうから頼むと、詫びた。熱い感情を抑えて渋々帰らざるを得なかった。俺もSANAから歌を無くすことなど本望ではない。でも俺は男だ。こんな忍耐はたまらない。今晩おそらく美幸を抱くだろう。SANAとこんなに結ばれたいと火照った体とは裏腹に、違う女を抱くことができる。それがモラルにかなわないことだとはわかっているが、そのときの自分に従わない方が、健全ではないだろう。
 もしかしたらSANAは、そんな内心を察して、あえて避けたのかとも思う。これだけ感性が通 じているのだ、俺の小さな嘘くらい見透かしていたのかもしれない。傷を生むであろう危険を察知し、前もって回避する道を選べるようになるのは、生きて行く中で覚える経験の値に等しい。今、これが割りきった感情でない以上、関わるほど傷つくことは目に見えていた。SANAもまた、感情をコントロールする術に迷って、きっと幾度かの辛酸をなめて、その傷の行方を十分に知っているのだろう。その臭いを感じ取れるのだろう。
 理性という説教に感情は上手く説き伏せられて、たいていの日常の些事は穏便にやり過ごすことができる。本来は、恋愛の趣きにまでその手法を用いることを俺は好まない。が、しかしその激情で多くを傷つけてきた。同じ轍を踏まないことが経験で成せる技なら、俺とSANAは結ばれるべきではない。言わずと知れた得策だ。
 そんな理屈に感情がねじ伏せられるなど、若い自分だったならなおさら許せないほどに暴走しただろう。現状を理解し、前後を読み、的確に動くという判断が恋愛感情においてもできるのは、年齢を重ね、経験を踏んだ賜物。喜ぶべきことなのだ。朝やけに染まりゆく早朝の電車の中で、浅い眠りに誘われながら帰路をひたすらに過した。

 翌日、SANAの何ものも聞いてなかったと気付く。住所などはもちろん、携帯ナンバーもアドレスもふたりは何も教えあわなかった。俺はSANAの所在を知らない。SANAも俺の所在を知らない。昨日はすっかりどちらかのアパートに辿りつくまで、ふたりの時間は続くものだと信じていた。突然に快よさを断ち切らなければならなくて、すっかり意気消沈した自分にしか気が回らなかったのだ。なんと、滑稽な失態。 あの店で落ち合うことでしか今俺たちには接点がない。いや、俺があの店に出向かなければSANAは俺に会う手段すら持っていない。そこまで考えて、たまらない不安に襲われる。なんと、滑稽な執心。
   
  (5) 疑心
   人は闇をのぞきはじめると、引きずられるように深くとことんに暗い部分まで踏み入りたくなる。誘われるように、望むように。
 週を明けて、心は晴れずにもんもんとした想いは宙に浮いた。ここにはSANAを感じる確かなものが何もない。ただ夜が明けるまで一緒にいたその残像しか俺はSANAを感じ得ることができない。不安に駆られて解かれない疑心に病んだ。落胆は妄想の隙をつく。
  SANAは俺との接点など望んでいない。場当たり的な偶然を楽しんでいただけ。歌の肥やしならば恋も操り、想える女。俺はSANAにとっての何ものでもない。

 次のステ−ジのある火曜のその日、俺は7時頃から既にカウンターを陣取った。もしかしたらSANAが早く来て、マスターと雑談でも交わしているような期待を胸に。けれど、少し時間が早い店の中はテンションが蝋燭の明かり分だけ高い。数組の客らの喧噪が空間を乗っ取る。自分らのおしゃべりだけが全てを占めるものだと言わんばかりに。
 でも、酒が運ばれた時、緊張は解かれた。やっと俺にも柔和な時が提供された。SANAからのメッセージがそこにはあった。

 電話番号も聞かずに帰るあなたに。   
 空想は彷徨いと戸惑いの夜におあづけ。
 今夜より明日。明日の夜電話して。
 待ってる。090-3737-・・・
 sana@・・・ne.jp  砂名より

 疑いから解かれる時はなんとも単純なきっかけ。目の前に置かれた事実だけを受け止めて、信じて見つめていればいい。自ずと答えはそこからやってくる。
 SANAはもう俺よりもずっと深いところで、その要領を得ていた。心はすべてに許された開放感と安堵感に包まれていくのだった。
   
  (6) 星降る夜
   その夜、俺はSANAのステージを見ることをやめた。数十分の時をおいて、SANAと同じ空間にいたというだけでもう満足だった。受けて放つ感性の許容量 は、既に飽和状態の値を超えていた。これ以上SANAを感じることがあれば、それこそ俺はどこに行ってしまうかわからない。要は、気持ちが高ぶっていたので、危険回避の道をとったということだ。
 SANAを求める想いは、男として、人間としていわば当たり前のこと。SANAの波長と同じところにいると知るだけで、感覚は既に超越されたいた。放出されるエネルギーの波に満たされ、みなぎって充分にすべてを体に取り込める。それ以上を追求すべく、さまざまな貪欲さは俺の中に存在していた。でももっと何か違う大きな流れに体が占領されていく感覚で、現に自分の中で何かが生まれてくるようだった。これ以上の刺激は、きっと本能で制御するようにできていたのかもしれない。自己のぎりぎりのところにある判断力が俺にそうさせた。そしてそれもまた、俺にとって超越という形に反映された満足だった。

 あと小一時間もすれば、またあの夜と同じ空気があの店に充満するのだろう。少々の後ろ髪に引かれながら店を後にした。街頭に液晶を照らしてSANAへとメールを打った。

 TELナンバーありがとう。
 今夜はステージを見ないで、君を見ないで帰る。
 君のくれた言葉で、救われ満たされた。
 今夜は酒も歌もいらない。風にふかれて熱を覚まそう。
 明日の夜、電話しよう。砂の名と書くSANAへ

 俺は、幼き頃から数えて幾晩の星降る夜を超えてきたのだろうか。親に従えずに逃げ出して走り抜けた月明かりの夜。明けることが惜しくて飽きずに費やした都会の長い夜。側にいる温もりさえも、煩わしく暑苦しく思えていた深く冷たい夜。ビル風を受けて過去に流れていた夜をも同化させて、ただ先にある道を歩いた。
   
  (7) 青い鳥
 

 俺は無性に絵が描きたかった。
 一時は絵の道に進むか真剣に悩んだ時もあった。学生の頃は人並みにデッサンも勉強し、いろいろな手法を使ってはさまざまな絵画にも挑戦していた。課題という強制もあったから、よく当時の溢れんばかりの激情をキャンバスに描きなぐっては情熱のままに仕上げた。そのうちのいくつかは納得のいく自分の絵っていうものも出来ていた。進路は美大と並行して専門で習ったデザインの道へ進み、CGを覚えて今はもっぱら朝から晩までコンピューターに向かうばかりの日々になった。  もう何年、筆を持って絵を描いていないのだろう。忘れ去られていた感覚は呼び起こされ、せつかせて止まなかった。

 自覚したときにはもう、手入れもされず十分に揃ってもいない昔の道具を引っ張りだしていた。埃をかぶっていたスケッチブックにただがむしゃらに描き出した。構想は出来上がっていた。 深く、濃く、しかし透き通る群青の青、1羽の羽ばたく青い鳥が羽を広げて飛び立つ姿。 脳裏に焼き付いて離れないディープブルーの鮮やかな色彩。それは、朝焼けを待ち望む浅い夜空。限り無く深い底をも映し出す澄んだ海。俺の描く青。俺が表わしたいもの。表わさざるを得ないもの。形にすべきもの。描かれることを望むもの。俺の魂。そしてSANAから得た躍動だった。
 瞬く間に十分でなかった画材は尽きてしまった。チューブの口すらにも残らないほど絞りだされた青い絵の具の残骸。もどかしさにせつかれながら眠気に気持ちを押し止めさせ、心を静寂へと沈めた。あと十数時間後にSANAの声を聞く。夢と現と彷徨いながら、SANAの歌を思い出しては眠りについた。


 「砂名か?」
 「今夜は会えるの?」

 翌日、俺が電話するまでもなく、夕刻6時も回った頃にはSANAは自分から携帯に飛び込んできた。突拍子もなく現れるのはどうやらSANAの趣味らしい。8時には仕事を終わらせ、待ち合わせる約束を告げた。

 しかし、その後すぐに届いたクライアントからの一通のFAXは、待ちわびたその日をまた遠のかせた。今進めているプロジェクトの急な修正依頼は、とても1〜2時間で終わらせられる内容ではなかった。SANAの残念に沈む声を聞いたら踏み止まれなくなるのがわかって、メールだけでキャンセルを告げた。SANAからも了解とだけの簡単な返信だった。

 仕事を片付けている間中、青い鳥の絵はより鮮明に俺の心に映し出され訴えていた。躍動がとりとめもなく心を襲う。そのもどかしさがなお、羽ばたく羽を広げさせ、空高く、青深く、遠い空間に解き放たれていく一羽の鳥。
 心の葛藤はもう、SANAに会いたいのか絵を描きたいのか、わからなくもなっていた。そのどちらも切望し触れずにはいられないと欲しているのに、現実はその道を閉ざしていく。それが運命なのだと、すべてを諦めてしまわないために人は心を研ぎすまさせていく。そして俺は絵を描くのだ。

 そんな真理がみつかった頃、あたりは暁を迎えていた。久しぶりの徹夜仕事を終えて、まずは青い絵の具を買いに行くことだと思いたった。    

   
  (8) 砂の名前
   その次のSANAのステージの日も、俺は店に行けなかった。例のプロジェクトの調整に追われ、終電近くまで世話しなく厄介ごとに追われていた。もちろん、絵の具を買いにいく時間もなかったが、SANAとは何回かメールでのやりとりが続いた。SANAの話題は、取り留めがなく、一貫性のないものばかりに楽しんでいた。
 昼に入ったリストランテで見た地中海の壁画の話。三日月の夜に擦り寄られた迷い猫の話。気まぐれに買ったガ−ベラの花束を水溜まりに落としてしまった話。その日に感じたことをそのまま綴っているようなそれらに、時に興味深く驚いてふざけて、返信を送った。ある時、砂名の名前の由来が書かれたメールをが来た。SANAのルーツを感じて、深まってゆく感覚にさらに浸るものだった。

 ---砂の名前とは、南の島の光る砂のこと。父と母が初めて訪れたその灼熱の場所で、二人は将来を誓いあったの。やしの木の揺れる音、打ち寄せる波の音、熱帯の気候に漂う潮の匂い、それらに包まれた満点に輝く星空の砂浜。母は父に抱かれて絶頂を迎えた。まだ、陽の温かさが残る砂を握りしめて、母は幸福を味わった。愛に満ち、私が宿ったのだと教えてくれた。目をつむれば今も、その時の感覚は鮮明に蘇ってくるのだと言って。女ってそういう想い出はずっと忘れないものだから、忘れないために砂名と名付けたのだって。そのロマンチックな話を聞いて、自分の感性は命の火が灯った瞬間からもう授かっていたものなんだって実感した。私は熱帯の星空の下、砂の温もりの中で生まれた子どもなのよ。---

 週末、ようやく仕事もひと段落つき俺は時間をつくれた。でもSANAにも誰にも告げず、その余暇をただひたすら絵を描き続ける時間にあてた。描きながらSANAを感じて過した。止まらない衝動はもう、寝る間も食べる間も、たばこを吸う間も無くすほど、没頭するがままに描き続けさせた。それでも仕上げるまでにはまだ相当の時間がかかり、仕事が始まった平日に戻っても創作のボルテージは下がらなかった。残業などいそいそと終わらせ即座に家に帰り、描きなぐっては夜が更けていく日が幾日か続いた。 なんだか絵を描き上げられなければ、もうSANAには会えないような緊迫に迫られているようでもあった。神がかり的な時間だったのかもしれない。

 木曜の夜にはやっと、あとわずかに仕上げを残すまでにこぎつけるに至った。奇しくも翌日はSANAのステージの日。用意されたそのお膳立てに、俺たちはただ自分らの感性を委ねればいいように、運命はやはりいたずらに決定づけられていたのだろうか。だが、そこまで出来上がってからはずっと、そのまま仕上がり直前の絵を見つめるだけに時を重ねた。あとほんの数カ所に筆を入れれば全くの完成だったのに、そのわずかの力を注ぐ勢いを溜めて、安易に沸き立たたせないようにした。一筆も進行させぬ ままにまんじりともせず朝を迎えた。

  結局のところその日は仕事も休んだ。どうしても最後の息吹を吹き込むために、その期が熟すまで、待ちたかった。俺ははじめて店を訪れて以来、SANAの歌を聴いていない。今日こそは完成を間に合わせ、もう一度SANAの精魂の歌に浸って高揚を得たかった。 ふつふつと最後の時を待ち、ゆっくりと、除々に沸騰点まで高まる神経を感じて、集中力は高まっていく。最後の瞬間をスポーツに例えるならば、マラソンランナーのラストスパートをかけたトラックランような感覚に近いのかもしれない。苦しいというよりも、もう既に気持ちは達成へと向かってゆく最後の全力疾走。

  いつの間にか、窓からさす西日は長い影を落として部屋を茜色に染めていた。その一筆を描くべく時間を告げるように。
  俺は、最後の絵の具を溶かし始める。
   
  (9) 恋歌
   俺が店に着いたのは、11時も過ぎた頃だった。SANAのステ−ジはもう2回目が終りに迫っていた。
 扉を開けて音響が耳に飛び込んできた時には、SANAはちょうど初披露するという自作の曲を歌い始めるところだった。今日のラストを飾る歌だった。

  もしもあなたに出逢えるならば  
  闇を超えて迎えにいこう  
  どんなに深く霧がはばむも  
  途切れてもなお時をつないで  
  あなたの熱を感じとろう  

  もしもあなたと出逢えなければ  
  空も海も宙の彼方も  
  大気のくずにまぎれていても  
  あなたのかけらを探しにいこう  

  私は感じて止まずにいるから  
  灯火に芯をさとされるように  
  嵐に反旗をひるがえすように  
  臆することなく今を生きよう  

  尽きない語りを果てなく抱いて  
  恋人たちは 愛 ささやく  

  LOVER'S BRAIN  
  知力の全てを 恋にささげて  
  力のみなぎる想いを ここに  
  あなたに 放とう 愛を歌おう  

  LOVER'S BRAIN  あらゆる知能も 
  駆使して灯そう  力を宿して想いを 
  ゆだね  あなたに 託そう 愛を尽くそう  

 SANAの響く声そのままの余韻を空間に残して曲は終わった。ピアノの伴奏は溶けだす音を静かにフロアーに落とした。SANAの瞳はフレームの中で見つめていたそれと同じに輝き、大粒の涙があふれて尽きなく頬をつたっていた。俺はその時、SANAを感じる以外に他に何ができただろう。最善列を陣取るどの客よりも、室内に響かせる誰の拍手の音よりも、素早くステージに駆けつけてSANAを抱き寄せて。なおきつく抱きしめた。すぐにもギターリストが気をまわして、俺の肩に触れて制していなければ、涙で湿ったSANAの顔を俺はキスで拭っていたかもしれない。

 興奮の冷めやらぬスポットライトの表側。仕上がったばかりの青く染まるキャンバスをピアノにたてかけ、SANAの手を引いてステージを降りた。バンドのメンバーたちは終了を告げ、退場する歌姫を拍手で送ってくれるようにと客に促した。マスターには、SANAを連れ去る代償にこの絵をおいていくと目配せで合図した。そのまま俺たちは出口の扉へと向かい、手を握りしめあって温もりを感じあい、外気へと繋がるステップを駆け上がる。

 新たな協奏への風を受けて肌にからむ空気の層は、俺たちをまばゆく迎え入れていくのだった。
   
  (10) ブレイン・知力
   今も、俺の絵はあの店の片隅に青い光を放ってその躍動を主張している。おそらくじっくりとその店を見渡し、知りつくしてみなければ絵の場所は見つけられないだろう。店の入り口からして、好む客だけを待ち望んでいるたたずまいだったことと同じように。
 SANAの恋歌は今夜もまた、あの店の空間をさらに恍惚に満たす。今ではすっかり定番となって店の演出に欠かせない趣向となっているだろう。店の内装からして、感性のままに洗練されていたことと同じように。

 あのコンピューター技師はまた違う街で違う店を、夜な夜な探し歩いているのだろうか。多分きっと探さないでいても、やつの鼻はそれらを上手く嗅ぎ分けて辿り着けているのだろうさ。  

 この街に、この国に、この星に、限りなくある、店の群れ、人の群れたち。消えては生まれ、去っては入れ代わり、街はそれらの集合体で活気づき成長していく。俺たちはそのうごめきの中で、もがき、あがき、感じ入っている小動物に過ぎない。ちっぽけな存在を主張し、影響しあって、感動を得て、悲しみを拭って、なんとか雨風をしのいで生きている。信じる明日は誰のもとにも降りてくるように、真の自分はいつも自分の中に必ず存在しているように、俺はこの店でSANAと出逢って生み出す意味をもう一度、顧みた。

 LOVER'S BRAIN。愛するものたちの知力。愛は知性を呼び覚まし、創造はそこに生まれ出づる。人は、まだ見ぬ 未来にあるだろう大きな対流に身をまかせ、熱を帯びてまた原点へと帰っていく。感性にいる自分に信じるがままに。

 SANAはあいかわらず歌をうたい、俺はあいかわらずSANAを愛していくことにした。青い絵と恋の歌が生まれた功績を、とりあえずは繋ぎとめておけたなら、愛がつくる自然の法則にもはやどんな制御も必要ないのだから。
 俺たちはコラボレイトされていく創造に、大地への足掛かりを踏みしめ、出逢いという道に導かれ今日もまた歩んでゆく。ほとばしる感性の源と淘汰されていく趣きに、手をかざして昇り始めた朝日を透かして。

  指の間からこぼれ落ちてくる光の渦は、ときに変容を重ねて逆光に眩しく俺を照らし続ける。


【END】
   
  フィル/ フロム・ジ・イノセント・ラブレター  
topguidecreativestorymindbbsmail
FIIL since 2002.4.26  ME All rights reserved. This site is link free.
       


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送